忘却の旋律 最終回

 
「それでも旅立つ君の朝」
 
自然世界はゆっくりと変わる。
だが、人間世界はゆっくり変わるわけではない。
 
大きな指導力、大きな物理力、大きな戦争。
それらを契機として、一気に変わる。
人間は、ただひたすらに安定を望むがゆえに、
変革は、最後の最後まで望まれない。
 
20世紀戦争に負けた人類は、今、
21世紀において、幸せな支配を甘受している。
自分で何も考えなくても良い、という幸せ。
 
子どもを食うモンスターがもたらす幸福。
 
世界の裏側で、銃を持って殺し合う子どもたちがいる。
貧困の中で、絶望の中で死んでいく子どもたちがいる。
 
現実の子どもの命だけではない。
これから生まれてくる、新しい世界の子どもたち、
つまり、「未来そのもの」をモンスターに食らわせているのだ。
 
その犠牲を無視することで、我々は平和で幸せなのだ。
 
 
ボクの歌を、歌わない。 教えた歌を、歌わない。
 
それは、自分の意のままにならないことへの憤りと共に、
自分とは違う存在への渇望であった、と思う。
モンスターキングは、全てを支配できる。
モンスターキングは永遠の存在である。
ゆえに、他者からの影響が皆無。だから孤独である。
 
忘却の旋律が、ソロに反抗したのはなぜか。
それは、忘却の旋律が、理想の「他者」だったからだ。
ソロが人間であり、メロスであった時に、
一番近くにいて、一番影響を受けた「他者」。
 
忘却の旋律がメロスの前に現れるのは、
ソロの陰謀でもなんでもなく、彼女は、理想としての彼女は、
メロス(ソロ)を励ます女神だから、ではなかったか?
 
人間は、他者との関わりの中で生きる生物だ。
 
永遠の理想である幻の忘却の旋律、困ったところもある現実の小夜子。
「あの旋律」を忘れた者と、自分の旋律を歌う者。
最後の対決のシーンで、抽象的に描かれた答えはなんだったか。
 
どちらが、悲しい有り様であったか。
 
 
アルコトナイコトインコが、モンスターキングの腹話術だとして、
「人間が自分の言葉をしゃべらなくなったから、その代わりに」
喋っているのが、モンスターキング、ということになる。
かなり、深読みした見方で、作者も考えてないかもしれないが。
 
そして、アルコトナイコトインコは、忘却の旋律とは別の、
もう一人の自分、それこそ完全に嘘の他者だったのだろう。
 
今回冒頭の、ソロと忘却の旋律とアルコトナイコトインコの会話。
そこに、どうしようもない自虐や皮肉を感じるのは、私だけではあるまい。
 
 
で、美少女牧場の「ピー」についても、語りたい。
 
「ピー」つまり、言葉の差し替えによって、人はその本質を見誤る。
教育や、まわりの大人からの情報によって、人はその本質を見誤る。
 
「だって、本当に食べられるとでも思ってるんですもの」
 
現実を見誤った、哀れな言葉である。
誰も彼女に真実を教えなかった。そういう世界だった。
気付いたときには、もう、手遅れだった。
 
モンスターの望むような身体になり、食べられる。
それは、
社会の望むような労働者になり、消費される。
社会の望むような有権者になり、消費される。
社会の望むような視聴者になり、消費される。
社会の望むような国民になり、消費される。
と、翻訳できる。
というか、そう言う意味なのだろう。
 
 
作者の意図は、本当のところは分からない。
ノストラダムスの予言解読のようなバカな真似はしたくない。
だから、私が語るのは、私が、この作品で感じた私の思いだ。
私が正解とは限らない。ソロが正解かもしれない。
ボッカが勝ったのは、単なる戦力差や幸運かもしれない。
あるいは、ご都合主義というやつなのかもしれない。
 
 
だが、
 

走れ

その厳しさを知りながら

なお、本当の自由を求める者よ

お前が辿りつくべきその彼方まで

世界を貫く矢のように

 
願わくば、あなたがメロスの戦士たらんことを。
 
私? そうですね。
我もまた、メロスの戦士たらんとする者。
 
メロスをやるのは、しんどいことだらけです。
でも、それでも旅立つ者に、朝はやってきます。