今週のファフナー

「不 あせり 在」
 
熱血ロボットとリアルロボットの共存の、
一番ありえない、一番悲壮な有り様を見た。
 
というかファフナーで笑うとは思わなかった。
 
世界観がシリアスであるがゆえに、
ダイゴウジガイ(山田)よりも、たちが悪い。
 
親父と息子の、漫画を通した交流というのは、
でも、そんなに非現実的なものではないだろう。
特に今の日本では。
 
と、ストーリーの本筋には全く触れずに、
いつものようにこむずかしく。
 
真壁父の言葉。
「積極的自己否定のあとにあるのは、絶対的肯定だ」
この意味を、私なりに咀嚼してみる。
 
自己否定とは、つまり現状否定。
それも、積極的ということは、
「自己の現状を望ましくないと強く自覚している」
ということ。
それは同時に
「望ましい別の有り様を想定できている」
ということ。
それは、現状の改善を志向する意思となる。

だが、人間は不完全である。
どこまで行ってもなにかしら欠点はある。
完璧である、ということも欠点になり得るのだ。 
果たして、その先に絶対的肯定はありうるのか?
 
純粋に論理的に考えれば、有り得ない。
懐疑論者は、永遠に完全を手に入れられない。
円周率のように近似値で満足するしかない。
 
だが、ここで、
「自分が心から望ましいと納得できる現状」
を手に入れることが、絶対的肯定だ、と言い換えてみる。
ミクロのデコボコがある以上、とある物質が作る円形を
可能な限り正確に計算するとしても、1兆桁は要らないのだ。
だから近似値は、正確な値よりも、ある意味で正しい。
 
現状を積極的に否定し、現状を改善していくならば、
いつか、納得できるほどに理想と酷似した、
「望ましい現状」
を手に入れることができる。
 
そう考えれば、理解できないこともない。
今が痛ましいだけに、それは真壁父の願いでもあるだろう。
  
難しい言葉を使うと、上記の説明を省略して尺が稼げるから、
説明すべき膨大な情報がある場合、仕方ないんだが。
誤解されてると思うので、一個人として論じてみた次第。