大きな物語とは
釈迦に説法つかまつる。
哲学上での、大きな物語、とは、神や理性などが
「全ての人を」導くとする思想のことを指す。
正確にはもうちょっと違うのだが、おおまかにそうだ。
大昔、神の御許への道こそが「たった一つの価値」であり
「全ての人」に当てはまる原理原則だった。
フランス革命後の理性を神として祭った「理性の祭典」しかり
現在、アメリカが本気で進めている
「全ての国が民主主義になれば戦争はなくなる」しかり
要するに、全ての人が目指すべき価値、手順を
「大きな物語」と呼ぶのである。
対する「小さな物語」は「たった一人」の物語である。
それは愛であり憎悪であり、信頼であり裏切りであり。
博愛となると「大きな物語」になってしまう。
大塚英志氏が語った言葉だが、
9.11以降のアメリカは、「ハリウッド的大きな物語」
のシナリオを本能的になぞっている感がある。
哲学上、その死が確定している「神=大きな物語」
の亡霊に取りつかれているかのように。
だからこそ、私は、鉤爪の男を「大きな物語」と呼び、
復讐者ヴァンを「小さな物語」と呼ぶのである。
鉤爪の男は、死した「大きな物語」の亡霊である。
ゆえに、歪んでおり、ゆえに狂信的で、ゆえに胡散臭い。
復讐者ヴァンの憎悪は、あくまで個人的な「憎悪」である。
ゆえに、大局的関知もなく、行き当たりばったりで、
だが、それゆえにすがすがしい。
ラクス・クラインやキラ・ヤマト、そして議長が「大きな物語」
であり、シン・アスカが「小さな物語」の象徴である。
ガンダムSEEDディスティニーとは、
「大きな物語」同士の最終決戦に「小さな物語」が圧殺される物語であり、
ゆえに、我々にとってあまりに現実味がない。
ガンソードは
「大きな物語」に圧殺された「小さな物語」が復讐を果たす物語であり、
ゆえに、我々にリアルな爽快感を与えるのである。
それが時代を映しているからである。