今週の鋼の錬金術師

第36話「我が内なる科人(トガビト)」


ウィンリィの親を殺したのは、炎を使う錬金術師だったそうである。
あの人なのだろうか? 違って欲しいとは思うが。
組織を変えるのは、組織の内部の人間である。
組織外部の人間の批難は、呼応する内部の人間がいなければ結実しない。
批判「だけ」では、何も変わらないのだ。


スカーが賢者の石を作ろうとしているらしい。
今度はこちらが、それを阻止する番である。


肌の色、目の色で、同じ人間とは思えない。
それは当然のことで、それは悲しいこと。


何を御大層に。
戦争モノなら俺はもっと素晴らしい作品を知っている。
なんの目新しさもない。
だから、面白くない。
戦争だの差別だの暗くすれば良いってものじゃない。
所詮は、キャラ萌え、で売ってるだけだろう。


却下。
どんなに、使い古されていようと、
どんなに、陳腐な言葉で語ろうと、
何度でも何度でも何度でも語らねばならないことはある。
初めて聞く人間には、それは新しい事実なのだ。
他の作品は見ない人間も、鋼の錬金術師を見るかもしれない。


何度も言うことになるが、
表現物には、まず伝えたい、表現したいテーマや想いがある。
キャラも脚本も世界観も、すべてはその為にある。


つたない言葉でつたない知識で、世界平和を語る人間に対して、
言葉尻を捕らえ、揚げ足取りをして、果たしてそれは論破と言えるのか?
所詮世界平和は夢物語、地上から戦争はなくなったことはない、
などと諦めの言葉を吐く事は、果たして論破と言えるのか?


そこまで分かっていて、ただより良き表現方法の模索の為に批判する人は良い。
問題は、批判の為の批判、コピーのコピーである。
批判「だけ」では、何も変わらない。


次回は閑話。大佐一味の愉快な日常である。