不思議の海のナディア(再)

乗組員の精神衛生を考えたネモ船長の判断により、
久しぶりに陸上に上がるノーチラススタッフ。
ガーゴイルとの戦いを忘れて、束の間の休息である。
 
お約束のラブコメあり、姐御の過去ありで、なかなかに味わい深い。
中でも、姐御がブルーウォーターに代わる宝石として
「あの人は海の宝石」
と、ネモ船長を賞し、ナディアと完全に和解する場面はよく覚えている。
 
今回のこむづかしいポイントは、
小鹿を狩ってきた男たちへの、ナディアの拒絶反応である。
サヴァイヴのシャアラも同じような拒絶反応をしていた。
 
「まだ子どもじゃないの! 可哀想だと思わなかったの?」
 
可哀想だから食べないとは、あまりに子どもっぽい理屈ではある。
食べなければ生きていけない、という現実で十分論破できる。
全人類が菜食主義者になるには、あまりに肉食の歴史・習性は長い。
 
それに対する男たちの無理解もまた、当然である。
ハンティングに嬉々として参加する男たちには、罪の意識がない。
彼らにとって小鹿は、獲物であり、美味しい「肉」である。
 
人間以外の動物への共感・愛情は、結局は人間の自己満足に過ぎない。
神の如き例外を除けば、飢えたら人間は動物を食うのである。
まずは、それを前提にして考えてみよう。
では、ナディアやシャアラの反応は、切り捨てるべきであるか?
人間以外への共感は、つまり人間の社会性、その柔軟性によると考える。
ならば、小鹿を「可哀想」と思えない人間は、その柔軟性が低い。
つまりは、自分ではないモノへの対応力が低いのである。
 
ノーチラス号という、人種差別から最も遠い場所の人間たちでさえ、そうなのだ。
彼らは、ネオアトランティスという共通の敵を持ち、それを排除するために、
つまり、自分と敵対する他者を排除するために集まってきた集団であり、
ゆえに強い団結力を持っている。ゆえに限界がある。
 
じゃあ、どうしろと言うのだ? と言われれば、
「可哀想に思いながら食うべし」である。
当国の食事の挨拶「いただきます」とは、
「あなたの命をいただきます。そして私は一生懸命生きます」
と、食事のたびに宣誓しているのである。